「経典や仏教書をよく読んで学ばなければ、本願の救済の中にいるのかどうか、分からないでなはいか」
「本願(仏さまが、慈愛によって全員を救済する、との約束)とは何か、人間とは何か、一生懸命に学び、難業(なんぎょう)こなさなくては、救済されるハズがないではないか」
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救済はすでに行われているのです。それを知り、感じ取るには、ただただ、命の輝きに気付く(仏さまの慈愛による救済が行われていることを納得する)ことです。
それ以上に何も必要はないのです。易行(いぎょう)なのです。
難しい経典や仏教書を読み、「難行(なんぎょう)」を積まなければ、悟りを開けない、という人もいます。もし、このことで、「易行」を否定するようであれば、返って自分の作り出す闇の中に入り込んでしまった、ということになります。
易行を志す人は、これらの人に惑わされる必要はまったくなく、また、争う必要もありません。