釈迦のような超人的な人が、極めて厳しい修行の末に業を極めきった一部の人のみが「悟りを開く」ことが出来ます。
悪人であれ善人であれ、「私」のような普通の人間が歩む道は、煩悩や欲求に振り回され、悩み苦しみながらも、仏さまの本願( 全ての人は生まれながらに救済されている )ということを思い出し、心に刻みつける努力をしながら生きていくことなのです。
「私」のように、普通の人が通常の生活を過ごしていながら、「悟りを開く」という在り得ないことです。
凡人の「私」でも、「悟りを開いた聖人」になれたらいいな、と思います。 しかしその「私」は、本願( 自らが宇宙の不思議に導かれた軌跡の存在であること )のことも忘れそうになり、煩悩と欲求に振り回され、不安と苦悩の中で苦しんでいます。
---------- エベレスト山を征服するような、「超人的」な登山家がいます。釈迦のような偉大な人は、きつい修行を経て、未「悟り」エベレスト山頂を極めることができます。 凡人の「私」は、そのエベレスト山頂に向かって、ゆっくり、マイペースで進んでいきましょう。
寿命のある内には到底到達できないでしょうが、正しい方向さえ見失わなければ、好いのです。 凡人の「私」は、エベレストの方向( 正しい方向 )を見定めて、ゆっくり(マイペース)で、毎日のトレッキングを楽しみながら生きていきましょう。 天気の悪い厳しい日には、「正しい方向に歩いている( 本願を忘れていない )」こと思い起こし、「これでいいのだ!」と称えればいいのです。