誰が誰の弟子だとか、弟子を取られたとか、破門したとか、の争いはもってのほかです。仏さま(神さま)の慈愛の存在を納得し(帰依し)たという人々の間で、師も弟子も関係ありません。
私親鸞は、弟子をもったという覚えは一度もありません。他の人を私の教えで導こうなどと思ったこともありません。教えが真理かどうかは、受け止めた人本人の納得(うなずき)によって決まります。
教えを受けた人は、教えを伝えてくれた人に感謝の念を抱いていれば、それでいいのです。
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