誰が誰の弟子だとか、弟子を取られたとか、破門したとか、の争いはもってのほかです。仏さま(神さま)の慈愛の存在を納得し(帰依し)たという人々の間で、師も弟子も関係ありません。
私親鸞は、弟子をもったという覚えは一度もありません。他の人を私の教えで導こうなどと思ったこともありません。教えが真理かどうかは、受け止めた人本人の納得(うなずき)によって決まります。
教えを受けた人は、教えを伝えてくれた人に感謝の念を抱いていれば、それでいいのです。
教えを人に語るとき、それを教えた人と教えられた人の間に、師弟、先生と生徒、師範と門弟などという関係は存在し得ません。 私たちは、先人たちをを敬い、弱い人たちを支え、一生懸命な人たちを尊敬し、お世話になた人たちに感謝します。そうした一人ひとりの人のつながりの一つであり、それ以上のことではありません。
ありえない奇跡を実現している不思議な力は、唯一だともいえますし、それを信じている(信仰してしている)方々の心の数だけある、ともいえます。 しかしながら、昔の方々が多くの人を通じて伝えたり、記録に残したりした折に、言い伝えや記録に少しずつ違いが出てしまいました。そして、「宗教」とか「宗派」とかが生まれてしまいました。元の精神「神さま(仏さま)の慈愛を信じる」ということには何も変わりはありません。そして、「神さま」も、仏教で表現している「仏さま」も、違いはありません。
宗教や宗派に属して、「神さま(仏さま)の慈愛」を信じている気持ちも、無宗教だと言いつつ「ありえない奇跡を目の当たり実現している不思議な力」を思い、これを信じたいと思っている気持ちも、「信仰心」には違いありません。 信仰と宗教は直接的には関係がないのです。