凡人の「私」は、
(1) まず、何もかも超越した力の存在を理解しなければなりません。
(2) その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されているのですが、
(3) 「私」の、煩悩や欲求(註)が、これを心から「信じるきる」ことを妨げているのです。
(註)煩悩( =必要以上の過剰な欲望 )
欲求( =社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識 )
(4) 「私」は、おまじない(念仏)を称(とな)え、
これも、在るがままの自分の姿、自然な姿なのだ、と、少しずつ理解を進めます。
・・・ ・・・ ・・・ そして、これらを、繰り返しながら生きていくのです。
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歎異抄の中では、
「悪人」とは、
煩悩や欲求に囚われている自分に気づいている人。そして、そのために本来の救済がすでに完了しているハズである、ということを信じきれない自分がいることに、気づいている人。
「善人」とは、
煩悩や欲求に囚われている自分に気づかないでいる人。
のことを言っています。
「私」が、一般的に言うところの悪行、すなわち、悪いことを企てるのか、善行、すなわち、よいことを企てるのか、などは問題ではないのです。まったく関係がありません。
悪い行い、よい行い、って何でしょうか。そんな区別さえ、神さま(仏さま)の救済の下(もと)では、意味の無いことです。「過去の悪事」だけでなく、「これからの悪事」などいうこともまた、全く無関係です。
もし、過去の悪事や、これから行う悪事を帳消しにできるという心を抱きながら、(2)~(4)を全うできるのであれば、それでよいのです ・・・ そんなことがもし可能ならば。
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