はるばる遠くから尋ねてきていただいて申し訳けありませんが、私親鸞(しんらん)は、仏さま(神さま)に救っていただくために、ただただ、念仏 --- (解釈者註)仏さま(神さま)の慈愛の力を心に刻むための「呪文(じゅもん)」 --- を称(とな)えることしか知りません。
私親鸞(しんらん)は、煩悩や欲求(註)の中に生きていますし、これを捨てさる方法は何も知りません。このような私が救済に触れる唯一の方法は、念仏を称えることなのです。
(註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識
私親鸞(しんらん)は、念仏を称えることで、救済を知ることができるものだと思っております。もし、仏さま(神さま)の慈愛だと信じていたものが、悪魔の誘いであって、地獄に落ちることになったとしても、全く悔いはありません。「心から信じる(帰依する)こと」が、私のなし得るすべてのことたと、素直に納得できるからです。--- (解釈者補足)悪魔の誘いだと解釈したって、私親鸞にとって何も得るものはない。
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