「歎異抄」が伝えたいこと、もっとシンプルに表現してみましょう。。。。
(補足:「信仰の心」は、後世の人たちが勝手に枠をはめてしまった宗教・宗派を超越しています。 宗教・宗派とは全く関係がありません。)
(1)神様、仏様(阿弥陀様によって、すべての人に --- どんな駄目人間にも --- 天国・極楽行き切符が用意されている、といういことを信じること(※補足:信じることの意味)。
(2)業とか煩悩(欲とかプライド)に振り回されて、ままにならない自分のことを「心底」駄目な人間だなぁ、と気付くこと。
・・・運や他人の所為(せい)にせず、心の底から、自分の駄目さに気付いた人のことを「悪人」というのだそうです。 悪人になるのが一番難しそうですね。 大抵の人は、心の奥底では、自分のことを結構立派な人間だ、と思ってます。
(3)業とか煩悩に振り回されて、何度も何度も何度も悔やみ、反省を繰り返しながら暮らしている、それが「生きる」ということなんだ、と理解すること。
(4)神様、仏様と対話するために、念仏を称えること。
・・・そんは自分がとても不安ですが、「これでいいんでしょうか!これでいいんですよね!」と、神様、仏様に、悪人の素直な心を持って、問えば、「それでいいんですよ!」という、言葉が聞こえてくる。
称える念仏は自分の心にしっくりはまる言葉を選べばいい。 南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経である必要はありません。 「これでいいんですよね!」でも、いいのです。
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(※補足:信じることの意味)
「天国・極楽行きの切符が保証されていることがどうして分かるのだろうか」
・・・それについて親鸞上人は下記のように説明したのだそうです。
「死んでからそうでないことが分かっても、それを信じて生きてきたことで、阿弥陀様を恨むでしょうか? 感謝することはあっても、恨むことはないとおもいます」 ・・・ どうでしょうか?
⇒ おわりに(まとめ) を参照ください。
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