◇ 小中学生のための『歎異抄』解説 ◇

    800年も前に生きた人たちが、真剣に心を見つめて、それを記録していました。
    『 「結果」の良し悪しなんて関係ありません! 重要なのは、いまこここの・・・「生き方」なのです 』
 

<解説> 不自然に生きることが自然

  宇宙を制御し、極めて奇跡的で不思議なバランスをつくり上げている、この理解を超えた力。「私」は、ただただ、恐れおののくしかありません。

  一方では、煩悩や欲求(註)に振り回されています。矛盾しているようですが、これも理解を超えた不思議と奇跡の力のバランスの中です。・・・ これも神さま(仏さま)の慈愛による救済の中、なのです。
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識

  「私」は、今も、苦悩( 明日をも知れぬ不安、孤独、病気の痛み・苦痛 ・・・)に引き裂かれそうです。
  それは、「私」が、煩悩や欲求の誘惑に惑わされているからです。(えっ!、そんなことはない? 必要最低限の欲求さえ満たされていない、と思っているのでしょうか?)
  そして、そんな「私」自身を、「不自然」だと思い込んでいるからです。この「不自然」さに絶えられないから苦しいのです。

  じつは、それは「私」にとってごくごく「自然」なことが起こっているのです。にも関わらず、「私」にはどう考えてみても「不自然」なことが起こっているとしか感じられない「だけ」です。

  結局「私」は、そこで、ごく「自然」だと感じるまで、繰り返し、その不自然さを体験してみるしかありません。そして、「自然」だと感じる「糸口」がきっと見つかるはずです。なぜなら、もともと、「不自然」だと思いつつ生きていくこと自体が「自然」だ( つまり、神さま(仏さま)の慈悲による救済の中にある )からです。

  これも、理解を超えた不思議と奇跡の、力のバランスの中のことです。

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<解説> 神さま(仏さま)か悪魔か

  凡人の「私」は、心豊かに充実の時を生きたい ・・・

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  時間さえ無かった「無」の世界から無限の時を経て、今ここに宇宙をつくり、「私」を存在させている、この不思議で奇跡的な理解を超えた力。
  これは「神さま(仏さま)の慈愛」なのでしょうか、それとも「悪魔の誘い」なのでしょうか。

  「私」は「神さま(仏さま)の慈愛」として納得しても、「悪魔の誘い」だと思うのも自由です。心の目で感じてみればそれが正解です。

  今ここに居るだけで、辛さ、苦しさに苛(さいな)まれていて、これから逃れる手段も分からない「私」であれば、不思議と奇跡の力も、「悪魔の誘い」だとしか信じられないでしょう。
  そんな「私」は、一時も早く命を全うし、この世から消えてしまいたいと思うかも知れません。それも、一つの答えです。 ・・・ 神さま(仏さま)も誰も、「苦しくても、どんなに辛くても、生きていなければいけない」なって、言っていません。

  しかし、命の前に、捨ててみると気が楽になるものがあるかも知れませんよ。
  たとえば、そのプライドとか ・・・ 。
  ホームレスであっても、心豊かに生きられるかも知れません。

  心豊かに充実の時を生きたい ・・・ 「私」の出した答えであれば、どんな答えも、一つの生き方なのです。

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<解説> おまじない(念仏)の役割

  「私」は、心豊かに充実の時を生きたい ・・・

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  「私」は、奇跡を演出している、我々人間には理解のできない不思議な力(神さま(仏さま)の慈愛の力)が実際にここに存在している、と心から信じることができたときに、この不思議の存在に対する感謝と喜びで、全ての --- ゴミのような --- 苦悩が消し去られてしまいます。

  残念なことですが、「私」のような凡人は、毎日の喧騒の中で、なかなかそれを感じ取るとごができない次第です。そのために、時々、一日の区切れ目(夕日の沈む時、お休み前のひと時、朝日の昇る時など)のあわただしさから解放された一時に、おまじない(念仏)を口にして、心を整え、この奇跡と不思議を感じるように努める必要があります。

  「おまじない(念仏)」によって、「私」は、ほんの少しかもしれませんが、心豊かに充実の時を生きている自分を発見することが出来ます。

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<解説> おまじない(念仏)の意味

  おまじない(念仏)は、「心からの謝罪と感謝」の意思表示です。言葉にこめられた意味は、

<「謝罪」の意味:悪人である自覚不足>
  今(今日、または昨日)まで、不安な気持ちでいっぱいで過ごしてきました。煩悩や欲求(註)の誘惑に振り回され、
  ・何もかも超越した力の存在を知り、
  ・その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されていることを知り、
  ・「私」の煩悩や欲求が、これを「信じるきる」ことを妨げていることを自覚する
努力を怠ってきています。
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識
  そのために、多くの人々に迷惑を掛け、不必要に、命あるもの、限りある資源を粗末にしてしまいました。
  なのに、「私」はまだまだ、自分は善人だと思い込んでいます。煩悩や欲求の誘惑に振り回されて、悪業を断ち切れないのです。

<「感謝」の意味:不思議と奇跡の永遠性>
  今(今日、または昨日)まで、「私」が生きていくために必要は微妙なバランスが、揺るぎないものとして保たれてきました。さらには、新しい出会い、体験、発見、喜びを知ることができ、それなりに、心豊かに充実した時を過ごせました。無事に生き抜いてこられたことに感謝しなければなりません。
  そして、今(明日、または今日)からも、この不思議な力は、「私」を導く、奇跡の流れを演出してくれます。

<「心からの」の意味:湧き上がる思い>
  謝罪と感謝の形を作るだけでしたら簡単ですが、心から湧き上がってくる真剣な思いがなければ、充実した気持ちは得られるはずがありません。
  スグにできるとは思えませんが、少しずつ「心から」を心がけることが必要です。

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<解説> 宗教に属さない「私」のおまじない(念仏)

  例えば
 ・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)・・・浄土教系の宗教の場合
 ・南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)・・・日蓮系・法華経系の宗教の場合
 ・アーメン・・・キリスト教などの場合
などが、宗教や宗派に属する方々の呪文、おなじない(念仏、お題目など)です。

  宗教や宗派に属していない「私」には、これらは馴染みません。通常の生活で使われている言葉に翻訳すれば、
 ・自然に、自然に
 ・あるがままに、あるがままに、
 ・まっすぐに、一直線で
などでしょう。
  お勧めできる、よい翻訳があるます。それは、天才バカボンのパパ(漫画家:赤塚不二夫)の口癖。

   「これでいいのだ!」

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【要旨】 親鸞「悪人であると自覚する」

  自分自身の力で(煩悩や欲求を断ち切る鍛錬、修行して)善行を積み、苦悩から解き放たれようとすると、人の知恵をはるかに超えた仏さま(神さま)の慈愛を知ることが難しくなります。

  人の知恵の小ささを知り、仏さま(神さま)の慈愛を感知できれば、真の救済に接することができます。仏さま(神さま)の救済とは、煩悩や欲求に振り回され、罪業(ざいごう)を背負って生きていると自覚することなのです。
  つまり、「悪人という自覚」をもつことが「気づき」の原点なのです。

  それゆえに、「善人でも往生するのですから、なおさらに悪人こそが往生するのです」と法然(親鸞の師)さまは言われたのです。

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<解説> 「私」は自覚のない悪人です

  歎異抄の中では、
  「悪人」とは、
  煩悩や欲求に囚われている自分に気づいている人。そして、そのために本来の救済がすでに完了しているハズである、ということを信じきれない自分がいることに、気づいている人。
  「善人」とは、
  煩悩や欲求に囚われている自分に気づかないでいる人。
のことを言っています。

  「私」は、今(今日、または昨日)まで、不安な気持ちでいっぱいで過ごしてきました。煩悩や欲求(註)の誘惑に振り回され、
  ・何もかも超越した力の存在を知り、
  ・その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されていることを知り、
  ・「私」の煩悩や欲求が、これを「信じるきる」ことを妨げていることを自覚する
努力を怠ってきています。
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識
  そのために、多くの人々に迷惑を掛け、不必要に、命あるもの、限りある資源を粗末にしてしまいました。
  しかも、もっと悪いことに、心の奥では「私はそこそこの善人のなずだ」と信じています。自覚していない「私」は、性質(たち)がわるいのです。

  「私」は、自分自身が「悪人」であることに気づかなければ、いつまでたっても、奇跡を演出している不思議の力の導きに出会うことができません。

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【要旨】 親鸞「仏教には二つの道が」

  仏教の世界では、「聖道門仏教」と呼ばれる学びと、「浄土門仏教」と呼ばれる、二つの道があります。

<聖道門仏教>
  厳しい修行を積んで、深く学ぶことで、煩悩や欲求(註)の誘惑に解き放たれた心で、ひたすら仏の導きにしたがって生きられるようになろう(悟りを得よう)というものです。これを「自力」による救済といいます。
  このようにして悟りを得た人たちを聖者(しょうじゃ)といいますが、私たちのような普通の人間にはできるものではありません。「自力」には限界があります。
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望 )
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識

<浄土門仏教>
   私たちのような、普通の人間は、神さま(仏さま)の慈愛の真理と絶対があり、その真理と絶対が「私」の上にはたらいていることを感じ、これを信じるより他はありません。これを「他力」による救済といいます。

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<解説> 他力ということ

  「私」は、心豊かに充実の時を生きたい ・・・

   ----------
  この宇宙の奇跡と不思議と、なんにつけてもスグに心の中が不安いっぱいになってしまう「私」の存在を思うとき、神さま(仏さま)の慈愛に導かれていることを --- 少しなりとも --- 納得せざるを得ません。

  凡人の「私」には、百年かかるか、千年が必要なのかのか解りませんが・・・
  ・まず、何もかも超越した力の存在を知り、
  ・その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されていることを理解し、
  ・「私」の、煩悩や欲求(註)が、これを心から「信じるきる」ことを妨げていることを自覚し、
   (註)煩悩( =必要以上の過剰な欲望 )
      欲求( =社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識 )
  ・おまじない(念仏)を称(とな)えながら、
     これも、在るがままの自分の姿、自然な姿なのだ、と、少しずつ理解を進めていく。
ことを、繰り返しながら生きていくしか、方法がありません。

  これこそが、「私」が毎日 生きていく目的なのであり、これこそが、本当に「自然なこと」なのです。

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【要旨】 親鸞「本願他力とは」

  私親鸞は、親のためとか祖先のために念仏(おまじない)をとなえたことはありません。私親鸞や人が善行を積むことで、親や祖先を救済できるわけではありませんから。救済は、仏さま(神さま)の慈愛の中で行われています。

  (「私」や)すべての人々を救済するという誓い(=本願)の存在を、納得しうなずくとき --- これを「本願他力」をいいます --- たとえ地獄にいても、この救済を知り、感じ、そして、信じることができます。

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     歎異抄を子どもたちにも理解できるように解説
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