◇ 小中学生のための『歎異抄』解説 ◇

    800年も前に生きた人たちが、真剣に心を見つめて、それを記録していました。
    『 「結果」の良し悪しなんて関係ありません! 重要なのは、いまこここの・・・「生き方」なのです 』
 

【要旨】 唯円「曲解するものが多くて・・」

  近頃は、親鸞さまの教えとは異なることを言い出す人があるようなのです。
  その一つ一つを詳しく述べたいと思います。

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【要旨】 唯円「納得すること、すなわち念仏すること」

  「お前は一体、仏の不思議な力を信じて念仏するのか、念仏の不思議な力を信じて念仏するのか」
  「そんなことも知らないで、念仏するのか」

   ----------
  仏さま(神さま)の慈愛の救済(不思議)を納得することが、すなわち、念仏(おまじない)を称えることなのです。何も違いはありません。

  また、善行を積むことで救いを求める人も居ますが、仏さま(神さま)の慈愛の救済を納得すること全てであり、行いの善悪とは本質的には、関係がありません。善行を積むという、それは、その人の生き方です。

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<解説> おまじない(念仏)は理屈ではない

  凡人の「私」は、
  (1) まず、何もかも超越した力の存在を理解しなければなりません。
  (2) その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されているのですが、
  (3) 「私」の、煩悩や欲求(註)が、これを心から「信じるきる」ことを妨げているのです。
     (註)煩悩( =必要以上の過剰な欲望 )
        欲求( =社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識 )
  (4) 「私」は、おまじない(念仏)を称(とな)え、
     これも、在るがままの自分の姿、自然な姿なのだ、と、少しずつ理解を進めます。
   ・・・ ・・・ ・・・ そして、これらを、繰り返しながら生きていくのです。

   ----------
  念仏して神さま(仏さま)の慈愛による救済が行われるわけではありません。「私」に対する救済は既に完成しているのです。

  「私」は、煩悩や欲求に妨げられて、既に、救済されている自分を、感じ取ることが出来ないでいるだけ。
  超人的な人は --- 必要ならば念仏(おまじない)で --- その煩悩や欲求を吹き飛ばしてしまうのでしょう。しかし、「私」は凡人ですから、それは困難です。

  おまじない(念仏)は、
  煩悩や欲求に振り回されて、なかなか、救済されていることを信じ込めず、また、感じ取れないでいる状態でいる、これもまたごく「自然な」自分の姿なのだ、ということを自分に語りかけるための言葉なのです。

  念仏「南無阿弥陀仏」、お題目「南無妙法蓮華経」は、おまじない『これでいいのだ!』、と同じです。

  ひたすら、「これでいいのだ、これでいいのだ、・・・」と念じていれば、ひとりでに力が湧いてきます。ただそれだけのことです。

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【要旨】 唯円「学ばなくても救済の中に居る」

  「経典や仏教書をよく読んで学ばなければ、本願の救済の中にいるのかどうか、分からないでなはいか」
  「本願(仏さまが、慈愛によって全員を救済する、との約束)とは何か、人間とは何か、一生懸命に学び、難業(なんぎょう)こなさなくては、救済されるハズがないではないか」

   ----------
  救済はすでに行われているのです。それを知り、感じ取るには、ただただ、命の輝きに気付く(仏さまの慈愛による救済が行われていることを納得する)ことです。
  それ以上に何も必要はないのです。易行(いぎょう)なのです。

  難しい経典や仏教書を読み、「難行(なんぎょう)」を積まなければ、悟りを開けない、という人もいます。もし、このことで、「易行」を否定するようであれば、返って自分の作り出す闇の中に入り込んでしまった、ということになります。

  易行を志す人は、これらの人に惑わされる必要はまったくなく、また、争う必要もありません。

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<解説> 知識の多い少ないは、関係がない

  凡人の「私」は、
  (1) まず、何もかも超越した力の存在を理解しなければなりません。
  (2) その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されているのですが、
  (3) 「私」の、煩悩や欲求(註)が、これを心から「信じるきる」ことを妨げているのです。
     (註)煩悩( =必要以上の過剰な欲望 )
        欲求( =社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識 )
  (4) 「私」は、おまじない(念仏)を称(とな)え、
     これも、在るがままの自分の姿、自然な姿なのだ、と、少しずつ理解を進めます。
   ・・・ ・・・ ・・・ そして、これらを、繰り返しながら生きていくのです。

   ----------
  超人的な人であれば、煩悩や欲求に振り回されることの無いようにするためにどうすればよいのかを書かれた経典、宗教学書、論文書、研究書や文献などを学習し、それにしたがった行動を起こせばよいのですが・・・。

  「私」のような凡人は、
   (1)救済は完了しているのです。にも関わらず
   (2)煩悩や欲求のために、そのことを完全には感じ取ることが出来ない
中で、生きていくしかありません。

  凡人の「私」は、そうした「私」自身を、否定するのではなく、あるがままの自分として受け入れ、おまじない(念仏)『これでいいのだ、これでいいのだ』と自分に言い聞かせながら、不器用に生きていきましょう。
   そこに、難しい理屈を知っているのかどうか、は、何も関係がないのです。

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【要旨】 唯円「信心は、悪人である謝罪の気持ち」

  「念仏を称えれば救われるだから、悪業であろうとなかろうと気にせずにやればいいのだ」
  「本願は悪人を救うためのものであるのだから、救いを得るためには、悪業を行う方がよいのだ」
  また、一方では
  「善人だけが本願を信じることができる。これこれのような行いをしたものは念仏するに値わない」

   ----------
  仏さま(神さま)は、慈愛(=奇跡と不思議の力)により、全ての人を救済されているのです(=本願)。
  私たちは、本願を信じ納得することによって、心の安らぎを得られます。念仏を称えるということは、納得していること証です。
  本願の救いは、行いの善悪とは直接には関係しないのです。

  しかしながら ・・・
  本願を納得する思いの裏には、『私がいかに悪人で罪作りであるか、という謝罪、反省』があるのです。
  私は、煩悩や欲求に引き摺られて生きています。無駄なこと・無責任なことによって、必要以上の生命・資源を消費し、人に迷惑をかけています。
  悪事をたくらむ人や、善悪の行為に無頓着な人が、格好だけの念仏を称えても、それは念仏にならないのです。
  

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<解説> 悪行、善行も関係がない

  凡人の「私」は、
  (1) まず、何もかも超越した力の存在を理解しなければなりません。
  (2) その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されているのですが、
  (3) 「私」の、煩悩や欲求(註)が、これを心から「信じるきる」ことを妨げているのです。
     (註)煩悩( =必要以上の過剰な欲望 )
        欲求( =社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識 )
  (4) 「私」は、おまじない(念仏)を称(とな)え、
     これも、在るがままの自分の姿、自然な姿なのだ、と、少しずつ理解を進めます。
   ・・・ ・・・ ・・・ そして、これらを、繰り返しながら生きていくのです。

   ----------
  歎異抄の中では、
  「悪人」とは、
  煩悩や欲求に囚われている自分に気づいている人。そして、そのために本来の救済がすでに完了しているハズである、ということを信じきれない自分がいることに、気づいている人。
  「善人」とは、
  煩悩や欲求に囚われている自分に気づかないでいる人。
のことを言っています。

  「私」が、一般的に言うところの悪行、すなわち、悪いことを企てるのか、善行、すなわち、よいことを企てるのか、などは問題ではないのです。まったく関係がありません。

  悪い行い、よい行い、って何でしょうか。そんな区別さえ、神さま(仏さま)の救済の下(もと)では、意味の無いことです。「過去の悪事」だけでなく、「これからの悪事」などいうこともまた、全く無関係です。

  もし、過去の悪事や、これから行う悪事を帳消しにできるという心を抱きながら、(2)~(4)を全うできるのであれば、それでよいのです ・・・ そんなことがもし可能ならば。

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【要旨】 唯円「本願の教えに報いる、それだけのこと」

  「念仏を称えれば、どんな悪業の罪も消え、極楽に行くことができる」

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  過去の行いの善悪とか、死後の世界などは、本願の救済とは何の関係もありません。
  ここに生きている「今」が重要なのです。
  今、本願にうなずき、自らが悪人であることを謝罪・反省し、明日はすこしはましな生き方ができることを願いながら、念仏を称える。それが全てです。

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<解説> おまじない(念仏)は減罪の手段ではない

  凡人の「私」は、
  (1) まず、何もかも超越した力の存在を理解しなければなりません。
  (2) その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されているのですが、
  (3) 「私」の、煩悩や欲求(註)が、これを心から「信じるきる」ことを妨げているのです。
     (註)煩悩( =必要以上の過剰な欲望 )
        欲求( =社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識 )
  (4) 「私」は、おまじない(念仏)を称(とな)え、
     これも、在るがままの自分の姿、自然な姿なのだ、と、少しずつ理解を進めます。
   ・・・ ・・・ ・・・ そして、(2)~(4)を、繰り返しながら生きていくのです。

   ----------
  神さま(仏さま)の慈愛による救済は、「私」の犯した(犯すであろう)「罪」とは何も関係ありません。・・・ そうしたことと関係なく、すでに救済は完成しています。

  問題は一点のみ。煩悩や欲求の妨げによって、信じる気持ちに曇りが出ていることです。

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【要旨】 唯円「悟ることより、煩悩とともに生きることの大切さ」

  釈迦のような超人的な人が、極めて厳しい修行の末に業を極めきった一部の人のみが「悟りを開く」ことが出来ます。

  悪人であれ善人であれ、「私」のような普通の人間が歩む道は、煩悩や欲求に振り回され、悩み苦しみながらも、仏さまの本願( 全ての人は生まれながらに救済されている )ということを思い出し、心に刻みつける努力をしながら生きていくことなのです。

  「私」のように、普通の人が通常の生活を過ごしていながら、「悟りを開く」という在り得ないことです。

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     歎異抄を子どもたちにも理解できるように解説
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