◇ 小中学生のための『歎異抄』解説 ◇

    800年も前に生きた人たちが、真剣に心を見つめて、それを記録していました。
    『 「結果」の良し悪しなんて関係ありません! 重要なのは、いまこここの・・・「生き方」なのです 』
 

【要旨】 親鸞「ただ念仏するのみにて」

  はるばる遠くから尋ねてきていただいて申し訳けありませんが、私親鸞(しんらん)は、仏さま(神さま)に救っていただくために、ただただ、念仏 --- (解釈者註)仏さま(神さま)の慈愛の力を心に刻むための「呪文(じゅもん)」 --- を称(とな)えることしか知りません。

  私親鸞(しんらん)は、煩悩や欲求(註)の中に生きていますし、これを捨てさる方法は何も知りません。このような私が救済に触れる唯一の方法は、念仏を称えることなのです。
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識

  私親鸞(しんらん)は、念仏を称えることで、救済を知ることができるものだと思っております。もし、仏さま(神さま)の慈愛だと信じていたものが、悪魔の誘いであって、地獄に落ちることになったとしても、全く悔いはありません。「心から信じる(帰依する)こと」が、私のなし得るすべてのことたと、素直に納得できるからです。--- (解釈者補足)悪魔の誘いだと解釈したって、私親鸞にとって何も得るものはない。

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<解説> 聖人の「節度」

  超人的な人でれば、苦しくつらい、長い長い修行を積み、
 ・煩悩や欲求を理解し、
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識
 ・この、煩悩や欲求から惑わされることなく完全に超越し、神さま(仏さま)の慈愛の導きを信じきる。
ことが、自然に当たり前のようにできる聖人になれるかもしれません。

  そして、聖人の域に達して、何の抵抗もなく、自然にこのようなことが出来るようになれば、至福の歓喜を感じながら、自ら進んで断食し、浄土に旅立つ(入定する)、というようなこともできるかも知れません。
  超人的な人が、普通の生活を捨てて、特別につらいつらい修行を長い長い間行って(=自力)、そしてやっと到達できるものなのです。

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<解説> 凡人の「節度」

  凡人の「私」には、
 ・煩悩や欲求を理解し、
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識
 ・この、煩悩や欲求から惑わされることなく完全に超越し、神さま(仏さま)の慈愛の導きを信じきる。
ことが、理想だと知りつつも、どれ一つとして、まともにできるものではありません。

  この聖人の域に達するには、百年、千年もの時間が必要かと思われます。到達できるかどうかわからない、はるかに遠い道のりです。

  凡人の「私」の、「私」なりの「節度」とは、「聖人の節度」を意識しつつも、毎日、常に煩悩や欲求の誘惑に振り回されている自分の姿を見つめながら、生きていくことです。

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<解説> 不自然に生きることが自然

  宇宙を制御し、極めて奇跡的で不思議なバランスをつくり上げている、この理解を超えた力。「私」は、ただただ、恐れおののくしかありません。

  一方では、煩悩や欲求(註)に振り回されています。矛盾しているようですが、これも理解を超えた不思議と奇跡の力のバランスの中です。・・・ これも神さま(仏さま)の慈愛による救済の中、なのです。
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識

  「私」は、今も、苦悩( 明日をも知れぬ不安、孤独、病気の痛み・苦痛 ・・・)に引き裂かれそうです。
  それは、「私」が、煩悩や欲求の誘惑に惑わされているからです。(えっ!、そんなことはない? 必要最低限の欲求さえ満たされていない、と思っているのでしょうか?)
  そして、そんな「私」自身を、「不自然」だと思い込んでいるからです。この「不自然」さに絶えられないから苦しいのです。

  じつは、それは「私」にとってごくごく「自然」なことが起こっているのです。にも関わらず、「私」にはどう考えてみても「不自然」なことが起こっているとしか感じられない「だけ」です。

  結局「私」は、そこで、ごく「自然」だと感じるまで、繰り返し、その不自然さを体験してみるしかありません。そして、「自然」だと感じる「糸口」がきっと見つかるはずです。なぜなら、もともと、「不自然」だと思いつつ生きていくこと自体が「自然」だ( つまり、神さま(仏さま)の慈悲による救済の中にある )からです。

  これも、理解を超えた不思議と奇跡の、力のバランスの中のことです。

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<解説> 神さま(仏さま)か悪魔か

  凡人の「私」は、心豊かに充実の時を生きたい ・・・

   ----------
  時間さえ無かった「無」の世界から無限の時を経て、今ここに宇宙をつくり、「私」を存在させている、この不思議で奇跡的な理解を超えた力。
  これは「神さま(仏さま)の慈愛」なのでしょうか、それとも「悪魔の誘い」なのでしょうか。

  「私」は「神さま(仏さま)の慈愛」として納得しても、「悪魔の誘い」だと思うのも自由です。心の目で感じてみればそれが正解です。

  今ここに居るだけで、辛さ、苦しさに苛(さいな)まれていて、これから逃れる手段も分からない「私」であれば、不思議と奇跡の力も、「悪魔の誘い」だとしか信じられないでしょう。
  そんな「私」は、一時も早く命を全うし、この世から消えてしまいたいと思うかも知れません。それも、一つの答えです。 ・・・ 神さま(仏さま)も誰も、「苦しくても、どんなに辛くても、生きていなければいけない」なって、言っていません。

  しかし、命の前に、捨ててみると気が楽になるものがあるかも知れませんよ。
  たとえば、そのプライドとか ・・・ 。
  ホームレスであっても、心豊かに生きられるかも知れません。

  心豊かに充実の時を生きたい ・・・ 「私」の出した答えであれば、どんな答えも、一つの生き方なのです。

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<解説> おまじない(念仏)の役割

  「私」は、心豊かに充実の時を生きたい ・・・

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  「私」は、奇跡を演出している、我々人間には理解のできない不思議な力(神さま(仏さま)の慈愛の力)が実際にここに存在している、と心から信じることができたときに、この不思議の存在に対する感謝と喜びで、全ての --- ゴミのような --- 苦悩が消し去られてしまいます。

  残念なことですが、「私」のような凡人は、毎日の喧騒の中で、なかなかそれを感じ取るとごができない次第です。そのために、時々、一日の区切れ目(夕日の沈む時、お休み前のひと時、朝日の昇る時など)のあわただしさから解放された一時に、おまじない(念仏)を口にして、心を整え、この奇跡と不思議を感じるように努める必要があります。

  「おまじない(念仏)」によって、「私」は、ほんの少しかもしれませんが、心豊かに充実の時を生きている自分を発見することが出来ます。

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<解説> おまじない(念仏)の意味

  おまじない(念仏)は、「心からの謝罪と感謝」の意思表示です。言葉にこめられた意味は、

<「謝罪」の意味:悪人である自覚不足>
  今(今日、または昨日)まで、不安な気持ちでいっぱいで過ごしてきました。煩悩や欲求(註)の誘惑に振り回され、
  ・何もかも超越した力の存在を知り、
  ・その力によって、既に「私」は全ての苦悩から救済されていることを知り、
  ・「私」の煩悩や欲求が、これを「信じるきる」ことを妨げていることを自覚する
努力を怠ってきています。
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識
  そのために、多くの人々に迷惑を掛け、不必要に、命あるもの、限りある資源を粗末にしてしまいました。
  なのに、「私」はまだまだ、自分は善人だと思い込んでいます。煩悩や欲求の誘惑に振り回されて、悪業を断ち切れないのです。

<「感謝」の意味:不思議と奇跡の永遠性>
  今(今日、または昨日)まで、「私」が生きていくために必要は微妙なバランスが、揺るぎないものとして保たれてきました。さらには、新しい出会い、体験、発見、喜びを知ることができ、それなりに、心豊かに充実した時を過ごせました。無事に生き抜いてこられたことに感謝しなければなりません。
  そして、今(明日、または今日)からも、この不思議な力は、「私」を導く、奇跡の流れを演出してくれます。

<「心からの」の意味:湧き上がる思い>
  謝罪と感謝の形を作るだけでしたら簡単ですが、心から湧き上がってくる真剣な思いがなければ、充実した気持ちは得られるはずがありません。
  スグにできるとは思えませんが、少しずつ「心から」を心がけることが必要です。

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<解説> 宗教に属さない「私」のおまじない(念仏)

  例えば
 ・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)・・・浄土教系の宗教の場合
 ・南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)・・・日蓮系・法華経系の宗教の場合
 ・アーメン・・・キリスト教などの場合
などが、宗教や宗派に属する方々の呪文、おなじない(念仏、お題目など)です。

  宗教や宗派に属していない「私」には、これらは馴染みません。通常の生活で使われている言葉に翻訳すれば、
 ・自然に、自然に
 ・あるがままに、あるがままに、
 ・まっすぐに、一直線で
などでしょう。
  お勧めできる、よい翻訳があるます。それは、天才バカボンのパパ(漫画家:赤塚不二夫)の口癖。

   「これでいいのだ!」

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  • 第十二章(仏教知らんくせに!) (2)
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  • 第十五章(悟りを開いた!) (2)
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     「 私 」とは何か。だれがなんのために、どうやって[ 読者 ]を「 私 」にしたのか。
  • 【普通に生きるための禅】
     閉塞感の中で悶々と生きている若者たちのために残した、先人たちの愛のメッセージ。
  • 【小中学生のための歎異抄】
     歎異抄を子どもたちにも理解できるように解説
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