◇ 小中学生のための『歎異抄』解説 ◇

    800年も前に生きた人たちが、真剣に心を見つめて、それを記録していました。
    『 「結果」の良し悪しなんて関係ありません! 重要なのは、いまこここの・・・「生き方」なのです 』
 

哲学から禅、歎異抄へ

【哲学に学ぶこと】
 「哲学」というのは偉い哲学者のむちゃくちゃに難しい定義や論理展開を理解することではありません。
 科学という手法によって、私たちは「解からない」現象を観測し、因果関係を分析し理解しようと試みを続けています。
 その因果関係から新たな仮説を見つけ出し、それに対応する現象を見つけ出したりもします。ところが・・・

 宇宙(の摂理)には、仮説や観測が不可能な現象で溢れています。 例えば・・・
 数学上の概念に「無限大∞」があります。が、人類の数10万年、数100万年の体験において、無限大∞を発見することは出来たのでしょうか。
 時間は永遠に、無限 ∞ に続くのでしょうか?
 どのような方法を使えば、この宇宙に、無限大∞が存在するのか(しないのか)解けるのでしょう。

 そのほかにも、宇宙は誰が何ために作ったのか、偶然とは何か、それは意図的とどう異なるのでしょうか・・・など。
  ---
 私たちは、今ここにこのように存在するのだから、それには答があるハズ。
 なのに答があるものかどうか、さえ知ることができません。

 まず第一に、「哲学」を知る。つまり、
 科学的手法を用いて、人類が宇宙の構造を少しずつ解き明かしてはいるけれど、宇宙は、基本的に解けるハズもないことがギッシリ詰まっている、ということを知ること。
 人々は先ず、人類の力や知恵を過信しないこと、宇宙の摂理を敬い、怖れ、暴走しない気構えを知りましょう。

【哲学から禅へ】
 私たちのカラダや精神、本能(欲望)は、「哲学」的に存在しています。それらがどうして、今ここにこのように、存在するものか、知ることはできません。私たちの祖先たちも、その本能に従って生き、生き延び、生き継いできました。
 つまり、生まれながらに連れてきた、自身の性質や本能(欲望)を最大限に堪能し、「宇宙空間」の摂理や社会の本質的な在り方についての啓示を得ながら、さらに充実した生き方を学びましょう。
 そうした生き方を「禅」 (禅仏教とはまったく異るもの) といいます。
 禅とは「集中」を意味します。
 その心の集中によって、過信、行き過ぎへの「自制、牽制」の力を生み、実現可能な最高の充実(堪能、味わい)を手に入れる生き方を学ぶことができるのです。

 例えば「食」でいえば、「美味しいものを食べる」のではなく「美味しく頂く」ことを考える、それが人生を堪能するやり方なのです。

【禅の心から信仰心への誘い】
 自分は宗教にも、信仰にも興味がない、という方でも「未来の何か」を信じ、
 「 未来はきっと自分の味方になってくれる 」
 そうした思いがなければ、人は穏やかに生きていけないのではないでしょうか。

 朝、目覚めた時。夜、床に就いたとき。辛いことに遭った時。嫌なことが在った時。・・・
 何時にあっても、
 「 未来はきっと自分の味方になってくれる 」
 と思い続けているには、どういうふうに心の姿勢を保って自身に向き合っていればよいのでしょう。
 信仰心に向き合う気持ち、姿勢。とても大切だと思いますよ。
 その姿勢の保ち方を学ぶことを常に忘れないようにしましょう。

 きっと、歎異抄の訓えは、お役に立てるはずです。

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「信仰」の本質について

 「私(あなた)」はいつも「充実した、心豊かな」時を過ごしたい。にも関わらず・・・

 「苦しくて、辛くて、悲しくで・・・、もう耐えられない」
 「この広い宇宙の下で、俺(わたし)以外の人間には、この苦しさも、辛さも、悲しさも、理解できない、出来るはずもない。なのに、死ぬのは逃げだとか、悪だとか言うのか・・・」
 ──── 死んでしまいたい人に、人間社会が勝手に決めた善悪や価値観なんて、まったく無関係だし、意味が無い。勝手に死ねばいいのです。犯罪者なることも恐れないなら、殺したいやつは殺しせばいい。親鸞聖人の言葉を借りれば、生き方、死に方に依らず、犯罪者であれ、誰もが『すでに』救われている(=極楽浄土に行く切符を持っている)のですから。
 「死んでしまいたい。殺してやりたい!」 それも、持って生まれた「煩悩」。煩悩とどう向き合うのか。それが生きること。なのだそうです。
  ・・・・・
 「こんなつらい事態に、自分に、どう向き合えばいいのか。本当の自分を知りたい! 悲壮感の中で死ぬのも、殺人者になるのも。死ぬ意味について、人を殺す意味について、未来の意味について。その思いそのものが生きること」

  ---------- ---------- ----------

(1) 「私(あなた)」は既に、あらゆる悩みから救済されています。そして、いつ死んででも極楽浄土、天国に行けます --- いえ、今でも極楽浄土、天国にいる。「私(あなた)」は十分過ぎる「幸せ」の中に居るのです。
  「私(あなた)」が・・・
  ・痛みに苦しんで泣いていようと、楽しんで笑っていようと
  ・悩み苦しんでいようと、のんびり暮らしていようと
  ・毎日働くのが辛かろうと、充実していようと
  ・健常者であろうと、ハンディキャップがあろうと
  ・財産があろうと、無かろうと
  ・頭がよかろうと、悪かろうと
  ・悪事を企んでいようと、善行を計画していようと
  ・根っからの悪人であろうと、真の善人であろうと
 ・・・ そんなこととは一切関係なく。

(2) 凡人である「私(あなた)」は「救済が完了している」ことを「信じられない」でいます。 --- 嘘だろ!?
  だから、不安で、じっとしていられないほど、泣きたいほど、辛くなってしまいます。

(3) 「救済が完了している」ことを信じられないのは、凡人である「私(あなた)」の業(ごう・生まれながらの性分)のためです。
  仕方がありません。その業(性分)と付き合いながら、マイペースで歩いていく、それが生きることの意味です。--- そのうちには心から信じられる日が来るかもしれませんから。

(4) それでも、あまりに辛かったり、じっとしていられないなら、死ねばいいじゃないか。殺人者になればいい。・・・ そのことと救済とはまったく関係ありません。
  死ぬのは逃げだとか、悪だとか、殺人は罪悪だとか、そんなこと、死にたいほど苦しい者にはなんの意味も持ちません。 もし、「死」や「殺人」が、「私(あなた)」を「苦しみ」から解き放ち、「私(あなた)」に、永遠の「充実と心豊かさ」を提供してくれるのなら。
  ・・・・・
  「煩悩と付き合って、今の自分を生きること」、それしか在りません。

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凡人の「私」がすべき4つのこと

 「歎異抄」が伝えたいこと、もっとシンプルに表現してみましょう。。。。
(補足:「信仰の心」は、後世の人たちが勝手に枠をはめてしまった宗教・宗派を超越しています。 宗教・宗派とは全く関係がありません。)

(1)神様、仏様(阿弥陀様によって、すべての人に --- どんな駄目人間にも --- 天国・極楽行き切符が用意されている、といういことを信じること(※補足:信じることの意味)。

(2)業とか煩悩(欲とかプライド)に振り回されて、ままにならない自分のことを「心底」駄目な人間だなぁ、と気付くこと。
 ・・・運や他人の所為(せい)にせず、心の底から、自分の駄目さに気付いた人のことを「悪人」というのだそうです。 悪人になるのが一番難しそうですね。 大抵の人は、心の奥底では、自分のことを結構立派な人間だ、と思ってます。

(3)業とか煩悩に振り回されて、何度も何度も何度も悔やみ、反省を繰り返しながら暮らしている、それが「生きる」ということなんだ、と理解すること。

(4)神様、仏様と対話するために、念仏を称えること。
 ・・・そんは自分がとても不安ですが、「これでいいんでしょうか!これでいいんですよね!」と、神様、仏様に、悪人の素直な心を持って、問えば、「それでいいんですよ!」という、言葉が聞こえてくる。 
 称える念仏は自分の心にしっくりはまる言葉を選べばいい。 南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経である必要はありません。 「これでいいんですよね!」でも、いいのです。
 ---
(※補足:信じることの意味)
 「天国・極楽行きの切符が保証されていることがどうして分かるのだろうか」
  ・・・それについて親鸞上人は下記のように説明したのだそうです。
 「死んでからそうでないことが分かっても、それを信じて生きてきたことで、阿弥陀様を恨むでしょうか? 感謝することはあっても、恨むことはないとおもいます」 ・・・ どうでしょうか?

   ⇒  おわりに(まとめ)  を参照ください。

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難しい修行をしなくても心豊かに・・解釈者

 ★ まだ作成中のサイトですが、重要な部分は記載し終えたつもりです・・【解釈者より】★

  『歎異抄』の原文、現代語訳は、どこに図書館にも置いてありますので、是非、それを借りて下さい。このサイトでは、 小中学校程度の皆さんたちにも、その内容を理解していただけるように、 解釈を試みたものです。
  鎌倉時代の中期に、親鸞(しんらん)というお坊さんがいたそうです。『歎異抄』は、その親鸞の言葉を、親鸞から学んだ唯円(ゆいえん)坊がまとめたもの、と言われています。

  聖人は、生活を捨て、つらいつらい修行をして、煩悩(ぼんのう:いろいろな誘惑にそそのかされる気持ち)を心の中から捨て去り、そして、心豊かなえらいお坊さんになります。しかし、私たちは、生活を捨てられません。
  千年近くも前に、親鸞という方が、普通に生活をしていても、心豊かに生きられる、と説明しています。

  はじめに (信仰心はだれにもある)
  序 章 (唯円「誤解を正すために・・)
  第一章 (神さま(仏さま)の慈愛)
  第二章 (念仏をとなえて)
  第三章 (悪人と善人)
  第四章 (自力と他力)
  第五章 (本願にうなずく)
  第六章 (師弟の関係)
  第七章 (今の信仰心が全て)
  第八章 (修行でも善行でもない)
  第九章 (煩悩とともに生きる)
  第十章 (心で感じる真理)
  中 序 (唯円「教えを曲解された例・・」)
  第十一章 (「何も理解していないくせに!」・・・?)
  第十二章 (「仏教を学んだこともないくせに!」・・・?)
  第十三章 (「念仏すれば悪事も平気だ!」・・・?)
  第十四章 (「念仏すれば罪は消える!」・・・?)
  第十五章 (「私は悟りを開いたぞ!」・・・?)
  第十六章 (「悪心を改めれば救われる!」・・・?)
  第十七章 (「信心なければ地獄に堕ちる!」・・・?)
  第十八章 (「極楽のレベルも金次第!」・・・?)
  後 序 (親鸞「信心に大きいも小さいもない」)
  おわりに (まとめ、要点)

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【要旨】 唯円「正しく理解してほしい」

  親鸞(しんらん)さまが伝えたかった「本願他力」の本当の意味が、正しく世に伝わっていないうように思われます。私、唯円(ゆいえん)は、直接、親鸞聖人から教えを受けました。

  ここに、親鸞さまが伝えたかった本当のことを、記録しておきます。

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【要旨】 唯円「神さま(仏さま)の慈愛の力に」

  「私」は、すでに神さま(仏さま)の慈愛の力によって救済されているのです。
  しかしならが、「私」は、常に煩悩や欲求(註)によって、苦悩から遠ざかることを妨げられています。「私」がこの苦悩から解き放たれるには、神さま(仏さま)の慈愛による救済を心から「信じる」気持ちが必要です。
 (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
    欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識

  救済は、善いことをしたとか悪いことをしたとか、罪人だとかそうでない人だとか、などとは全く関係なく行われます。自身の心や身体を鍛錬して得られる、という類のものでもありません。私たちの力や行いを超越したものなのです。
  ただ、「神さま(仏さま)の慈愛を心から信じる(帰依する)こと」(=「本願他力」)によって、私たちは苦悩から解き放たれるのです。

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<解説> 空間と時間

  「私」は、今、この宇宙の中の銀河系、太陽系にある、地球の上に生きています。しかし、この宇宙の果ては、どこにあるのでしょうか。無限の彼方の、そのまた無限の彼方。そこは何もない世界なのでしょうか。時間もないのでしょうか。

  この宇宙はいつ始まったのでしょうか。ビッグバンは、140億年ほど前に豆粒のような塊が爆発したことから、始まったそうです。しかし、ビッグバン以前はどうだったのでしょうか。無限の過去の、そのまた無限の過去。
  そして、未来はいつまで続くのでしょうか。

  「私」は『無限に遠い』とか、『何も無い(時間さえもない)』などとかを理解することが出来ません。科学がどのように発達しても、人類が、無限に遠いもの、何もないもの、を理解する方法は見つからないでしょう。

  しかしながら・・・、確かなことは・・・、
  何もなかったところから始まって、無限の時間を経て・・・、「私」は今、「ここに存在」しています。無限の宇宙と永遠の時間の空間の中に、ぽっかりと浮いています。

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<解説> 不思議と奇跡

  「今」がここに存在しています。

  理屈からすれば、何もなかったところから、無限の時間が過ぎ去って、「今」がここにあるのです。どこでどのようにして、宇宙は発生し、また、発生することとなったのか、理解を超えていますが、現に、様々な物理的法則、質量や、力や、エネルギー、そして電磁波など・・・が、今ここに存在します。それらの法則の、「絶妙」のバランスの基に、宇宙の安定が保たれています。

  ビッグバンが140億年ほど前に起こり、46億年前に、地球が生まれました。38億年前に、たった一つの生命体(細胞)が地球上に発生し、それが、地球上の「すべての生物」に進化しました。そして、どういうわけか、今「私」がここに生きています。
  これらはすべて、無限に遠い昔からの、宇宙の法則の微妙なバランスによって、生まれた結果です。無限の過去から今までの、人間には想像できない長い長い間に、何かの素粒子一つの動きが違っていても、地球もなければ、もちろ、「私」も存在しなかったでしょう。

  何もなかったところから、無限の時を経て、「宇宙」が今ここにある。それは『不思議』としかいいようがありません。
  また、どんな意思が働いて、・・・ 宇宙にたった一つの ・・・ 私はここに生きることになったのでしょうか。『奇跡』としか言いようがありません。

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【要旨】 親鸞「ただ念仏するのみにて」

  はるばる遠くから尋ねてきていただいて申し訳けありませんが、私親鸞(しんらん)は、仏さま(神さま)に救っていただくために、ただただ、念仏 --- (解釈者註)仏さま(神さま)の慈愛の力を心に刻むための「呪文(じゅもん)」 --- を称(とな)えることしか知りません。

  私親鸞(しんらん)は、煩悩や欲求(註)の中に生きていますし、これを捨てさる方法は何も知りません。このような私が救済に触れる唯一の方法は、念仏を称えることなのです。
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識

  私親鸞(しんらん)は、念仏を称えることで、救済を知ることができるものだと思っております。もし、仏さま(神さま)の慈愛だと信じていたものが、悪魔の誘いであって、地獄に落ちることになったとしても、全く悔いはありません。「心から信じる(帰依する)こと」が、私のなし得るすべてのことたと、素直に納得できるからです。--- (解釈者補足)悪魔の誘いだと解釈したって、私親鸞にとって何も得るものはない。

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<解説> 聖人の「節度」

  超人的な人でれば、苦しくつらい、長い長い修行を積み、
 ・煩悩や欲求を理解し、
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識
 ・この、煩悩や欲求から惑わされることなく完全に超越し、神さま(仏さま)の慈愛の導きを信じきる。
ことが、自然に当たり前のようにできる聖人になれるかもしれません。

  そして、聖人の域に達して、何の抵抗もなく、自然にこのようなことが出来るようになれば、至福の歓喜を感じながら、自ら進んで断食し、浄土に旅立つ(入定する)、というようなこともできるかも知れません。
  超人的な人が、普通の生活を捨てて、特別につらいつらい修行を長い長い間行って(=自力)、そしてやっと到達できるものなのです。

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<解説> 凡人の「節度」

  凡人の「私」には、
 ・煩悩や欲求を理解し、
  (註)煩悩 : 必要以上の過剰な欲望
     欲求 : 社会・組織・自分の中に潜む、意味のない迷信・常識意識
 ・この、煩悩や欲求から惑わされることなく完全に超越し、神さま(仏さま)の慈愛の導きを信じきる。
ことが、理想だと知りつつも、どれ一つとして、まともにできるものではありません。

  この聖人の域に達するには、百年、千年もの時間が必要かと思われます。到達できるかどうかわからない、はるかに遠い道のりです。

  凡人の「私」の、「私」なりの「節度」とは、「聖人の節度」を意識しつつも、毎日、常に煩悩や欲求の誘惑に振り回されている自分の姿を見つめながら、生きていくことです。

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カテゴリー

  • はじめに(信仰心はだれにも) (4)
  • 序 章(誤解を正すために・・) (1)
  • 第一章(神(仏)さまの慈愛) (3)
  • 第二章(念仏を称えて) (8)
  • 第三章(悪人と善人) (2)
  • 第四章(自力と他力) (2)
  • 第五章(本願にうなずく) (3)
  • 第六章(師弟などない) (3)
  • 第七章(今の信仰心が全て) (1)
  • 第八章(修行でも善行でもない) (1)
  • 第九章(煩悩とともに生きる) (1)
  • 第十章(心で感じる真理) (2)
  • 中 序(曲解の事例紹介) (1)
  • 第十一章(理解ないくせに!) (2)
  • 第十二章(仏教知らんくせに!) (2)
  • 第十三章(念仏で悪事も平気!) (2)
  • 第十四章(念仏で罪が消える!) (2)
  • 第十五章(悟りを開いた!) (2)
  • おわりに(まとめ) (4)
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     「 私 」とは何か。だれがなんのために、どうやって[ 読者 ]を「 私 」にしたのか。
  • 【普通に生きるための禅】
     閉塞感の中で悶々と生きている若者たちのために残した、先人たちの愛のメッセージ。
  • 【小中学生のための歎異抄】
     歎異抄を子どもたちにも理解できるように解説
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  • ◇ 小中学生のために『歎異抄』を解釈 ◇
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