【哲学に学ぶこと】
「哲学」というのは偉い哲学者のむちゃくちゃに難しい定義や論理展開を理解することではありません。
科学という手法によって、私たちは「解からない」現象を観測し、因果関係を分析し理解しようと試みを続けています。
その因果関係から新たな仮説を見つけ出し、それに対応する現象を見つけ出したりもします。ところが・・・
宇宙(の摂理)には、仮説や観測が不可能な現象で溢れています。 例えば・・・
数学上の概念に「無限大∞」があります。が、人類の数10万年、数100万年の体験において、無限大∞を発見することは出来たのでしょうか。
時間は永遠に、無限 ∞ に続くのでしょうか?
どのような方法を使えば、この宇宙に、無限大∞が存在するのか(しないのか)解けるのでしょう。
そのほかにも、宇宙は誰が何ために作ったのか、偶然とは何か、それは意図的とどう異なるのでしょうか・・・など。
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私たちは、今ここにこのように存在するのだから、それには答があるハズ。
なのに答があるものかどうか、さえ知ることができません。
【哲学から禅へ】
私たちのカラダや精神、本能(欲望)は、「哲学」的に存在しています。それらがどうして、今ここにこのように、存在するものか、知ることはできません。私たちの祖先たちも、その本能に従って生き、生き延び、生き継いできました。
つまり、生まれながらに連れてきた、自身の性質や本能(欲望)を最大限に堪能し、「宇宙空間」の摂理や社会の本質的な在り方についての啓示を得ながら、さらに充実した生き方を学びましょう。
そうした生き方を「禅」 (禅仏教とはまったく異るもの) といいます。
禅とは「集中」を意味します。
その心の集中によって、過信、行き過ぎへの「自制、牽制」の力を生み、実現可能な最高の充実(堪能、味わい)を手に入れる生き方を学ぶことができるのです。
例えば「食」でいえば、「美味しいものを食べる」のではなく「美味しく頂く」ことを考える、それが人生を堪能するやり方なのです。
【禅の心から信仰心への誘い】
自分は宗教にも、信仰にも興味がない、という方でも「未来の何か」を信じ、
「 未来はきっと自分の味方になってくれる 」
そうした思いがなければ、人は穏やかに生きていけないのではないでしょうか。
朝、目覚めた時。夜、床に就いたとき。辛いことに遭った時。嫌なことが在った時。・・・
何時にあっても、
「 未来はきっと自分の味方になってくれる 」
と思い続けているには、どういうふうに心の姿勢を保って自身に向き合っていればよいのでしょう。
信仰心に向き合う気持ち、姿勢。とても大切だと思いますよ。
その姿勢の保ち方を学ぶことを常に忘れないようにしましょう。
きっと、歎異抄の訓えは、お役に立てるはずです。