[ 読者 ]:読者の名を入れて読んで!
----------
[ 読者 ]が「 いま、ここに、いる 」という存在感の源は ──
◆今、認識装置(脳)の認識機能自身が、その認識の活動状況を直接に感じ取って「 自己認識 」している
こと、つまり「 意識 」に由来すると考えられます。
----------
< 意識 >
この認識装置の活動を認識装置自体が「 自己認識 」している活動が「 意識 」です。
アナログな今という時間で活動している認識装置の場合、認識装置の外部からの観測で、自己認識というフィードバックのない認識活動と、フィードバックに対応する自己認識活動と、に分離する手段がありません。
例えば、難しい問題を思考して悩んでいる認識装置の活動において、問題の思考のための認識活動による出力と、難しさで発生する苦悩の認識活動による出力に分離することは不可能です。
アナログ増幅器の出力を観測し、入力の源信号と増幅部分を分離できないことと同じです。
二つの認識活動は、認識装置の「内部からの認識」として捉えない限り限り、不可能です(=科学的観測可能性の限界)。
----------
< 視点 >
生命体の脳はアナログな時間上で活動している認識装置です。
「 意識 」は脳を持つ生命体すべてに「 ある(と考えて辻褄が合う)」と思われます。 しかし、その「 意識 」のうち、たったひとつ、唯一、[ 読者 ]と名付けられた宇宙服内の備わっている認識装置の「 意識 」だけが、目の当たりに実感として出現しています。
[ 読者 ]は ・・・
科学的物理的には差異がないという常識と、長年の社会的常識の押しつけによって ── 他人の「 意識 」は出現体験したこともなく、その存在を科学的に説明する方法も成立していないにも掛からわず ── まるで、他人も「 意識 」の出現体験をしているが如くに想像力を働かせてしまっています。この宇宙内のたった一つの「 意識の出現体験 」こそが、宇宙服内の認識装置を[ 読者 ]だと認識させている、にもかかわらず。
科学的に考えればこの意識の出現体験こそが、[ 読者 ]を他人と区別するための因子になっている、と気付かなければなりません。でなければ[ 読者 ]はたちまちのうちに自分と他人を区別できるハズがないのですから。
Aさんにもその他の他人にも見つかることの在り得ない(=「(図り知れない)混沌」)であるのに、[ 読者 ]にのみ出現体験できているこの「(紛れもなく)ある 」性質が、ここでいう「 視点 」です。
物理的科学的には観測不可能であり、その実態も掴めません。しかし「(紛れもなく)ある 」性質です。
Aさん(他人)にも「 意識 」が出現しているのだろう、と想像することも出来ます。
しかし[ 読者 ]には体験しないもの、出来ないものが、いったいどこに出現している、というのでしょうか?
もし[ 読者 ]は体験することも出来ず、科学的にも実在を証明できないものごと状態を「(紛れもなく)ある 」あるいは「 ある(と考えて辻褄が合う)」と主張するには、その根拠を明らかにしなければなりません。
そんなふうに想像する、想像できる、というだけでは、単なる幻覚、幻想、妄想と同じです。
Aさん(他人)の「 意識 」の出現体験は、それ自体、すでに「(図り知れない)混沌 」の海の中、なのです。
視点、つまり意識の出現体験は、
今の今[ 読者 ]と名付けられた地球人型宇宙服に備え付けられた認識装置(脳)が覚醒しているときに出現します。
◆ この宇宙に唯一の[ 読者 ]に意識体験をさせている「 視点 」は「(紛れもなく)ある 」。
かつ、他人の意識、あるいは意識体験は、常に、どこにも出現しません。
他人の「 視点 」の存在は「(図り知れない)混沌 」の中。