西洋哲学でも東洋哲学にあっても、
哲学者と呼ばれる方々は、科学で説明できないことがらについて、
宇宙を統率する究極の真理が必ず「 ある 」と信じ、それを追い求めます。
「 今は説明できていないが、解は必ずある! 」と。
それは「一神」を信仰している民族の民族性に起因しているのではないでしょうか。
日本は古来より「多神」の民族です。
日本人の哲学は「一神」民族のそれとは異なるはずです。
「 ものごと現象、すべてに「本質」がある。宇宙は、この一つ一つの本質が、石垣のように重なり合って構成されるもの 」
ひとつひとつの「 本質 」の形に合わせて、全体が積み上がっていくのであり、そこには全体を統率する、という概念は成立しません。
宇宙全体の形などは、知り得ないことであり、知ることに意味がありません。
日本人の[ 読者 ]に、宇宙を統率するような何か、を想像することができますか?
日本人にとっての哲学とは、
『「 ある 」としっかり理解し得るごと現象・概念 』は何であり、
そこから先の、人類が知り得ないものごと現象や概念、を覗き込める渕がどこら辺りにあるのか、
を、見つけること、知ること、考えること。
ではないでしょうか。
日本人はそうやって、宇宙・自然の途方もない雄大さを知り、宇宙・自然を恐れ、畏れ(敬意を払っ)て来ました。
そこに ── 「一神」思想の国々の西洋や東洋の哲学ではなく ── 「多神」思想の日本哲学の重要性があると思います。
これを仮に、本質論を積み上げる「 和哲学 」と呼んでおくことにしましょうか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。