山村宗純の、人生最初の哲学的疑問!
----------
高校で科学や物理の時間に、
「『無限大』という概念はあるが、現実の世界では在り得ない。その大きさを具体的に意識しなくていいほど極めて大きいという時『無限大∞』という言葉を使う 」
と教わりました。 一方では、
「 ある現象を観測したとき、その現象を引き起こす全べての原因を調べ、その原因と結果の一定の関係を解くことを、物理学と言います 」
とも教わりました。
そうすると、ある現象を引き起こすひとつひとつの原因についても、
── その原因を、結果として引き起こしている(複数の)原因がある。
ということになります。 原因と結果の連鎖です。
で、疑問が湧きます。
その連鎖はどこまでもどこまでも遡れば、どこに到達するのでしょう。
理屈からいえば、どこまでもどこまでも無限にその連鎖は続くハズ。
・・・ 一方、現実の世界には『無限』は在り得ない、と言う。
矛盾してませんか?
----------
大人になってからも、
どうやら「科学的知見によれば、心は脳の機能的働きによって生まれるらしい」と学びます。
脳を科学的に観測することができれば、その物理的あるいは化学的な状態がどんな心の動きと繋がっているのか、が観測できるはずです。
確かに、脳の状態を科学的に観測することは可能かもしれません。 しかし、
私の心が今「実感」している、という現象をどうやって科学的に観測すればいいのでしょう?
私は今、
「この」ギラギラした赤さ、
「この」舌を刺す辛さ、
「この」途轍もない寒さ、
「この」居ても立ってもいられない悲しさ
を実感しているとき、この実感をどうやれば、私以外の他人に味合わってもらうことができるのでしょう。
どう考えても、
一旦、物理的化学的な現象に置き換えて、それを他人の脳で認識してもらう方法しかあり得ません。
それでは今の私の「実感」が「実感」として伝わったとは言えません。
---
私の今の「実感」を直接他人にも「実感」してもらう方法が成立しません。
もしこの「実感」を心というならば、
「 私には、私の心しか見えません。他人の心を見ることはできません 」
ということです。
---
にも関わらず、哲学者、科学者ほかの天才的な方々は、
「 人間ならばだれにも心がある 」
と決めつけています。 それはなぜなのでしょう。
天才的な方々は、それを気にする様子もなく「いつか理解できる」と信じて必死に前進し続けています。
----------
仕方がありません、置いて行かれる凡人たる私は、
基本的に、宇宙の本質は「 解らない、知り得ない、不可解 」ではなかろうか、と仮定してみました。
すると、意外に無理なく私の認識力の中に収まるのです。
「 知り得ないもの 」は、「 知り得ないもの 」として、そのまま私の認識力の中に収める。そこからスタートすれば、宇宙はどう描けるのか。頭がよければ遣らない方法で宇宙を描いてみました。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。