[ 読者 ]:読者の名を入れて読んで!
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[ 読者 ]と名付けられた地球人型ロボットの視点(操縦席)は、今の今覚醒しています。
そして気が付きます。
それにしても、「 ある(と考えて辻褄が合う)」には、絶対にそう信じられるものは少ない気がする。
なんだか、そんな気もするなあ、というものばかりだ。
それでも「 ある(と考えて辻褄が合う)」が成立するのかなあ?
1)[ 読者 ]自身が観測したこと
でさえ、神経という「 観測の窓 」を通して観測するのだから神経の伝達ミスもあるだろうし、認識装置の認識ミスで不正確かもしれないし、精度のブレ(偏差)もあるハズだ。
その時ははっきりしてたとしても今、記憶は薄れてくるし、忘れかけても来る。
ましてや、
2)科学者などの権威者が記録したこと
の場合は、誤差やブレ(偏差)の大きさについてはハッキリ説明されたものはほとんどない。それをまた[ 読者 ]の神経という「 観測の窓 」を通して観たり読んだりして認識するんだから、[ 読者 ]の勘違いや、書かれていないことまで想像力で補って、誤った理解をしているかも知れない。
科学者や権威者の説明は複雑すぎるのに、その一方、誤差・曖昧さに対しての説明や判断は極めて手抜きだ。
科学者や権威者の誤りも含まれていて、怪しさ感いっぱいだぞ。
[ 読者 ]の認識装置が安心して、真実だ、と認識できることなんて、どこにあるのか。
そうです。
◆「 ある(と考えて辻褄が合う) 」とは「 曖昧 」さでいっぱい
です。それでいいのです。そういうものなのです。
ひょっとしたら、
◇ 認識装置の中で内部に蓄積される刺激を、錯覚、幻想、空想の世界で、自分の理解上矛盾のないように作り上げているだけかもしれないのです。
それでも、[ 読者 ]が「あった、ある、あるハズ(と考えて辻褄が合う)」と認識するのであれば、それでいいんです。
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